NBAスポーツ速チャン

NBA好きです。2009年たまたまテレビに映ったコービーの姿に衝撃を受け、レイカーズの試合を中心にみるようになり、ブログを始めました。ただただNBA好きのおじさんです。NBAやBリーグの話題を2chからまとめて紹介しています。

    2020年05月

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    マイケル・ジョーダンやヴィンス・カーター等、ダンカーの先駆けとなったジュリアス・アービング。

    ダンクシュートをより芸術的に、より独創的な域に到達させました。

    しかし、当時のNBAは暗黒期、ABAとの競争、薬物の蔓延等によりNBAは疲弊していました。

    カリーム・アブドゥルジャバーというスターがいましたが、カリームは孤高を好む存在でしたので、マジック・ジョンソンとラリー・バードの2選手が入団してくるまでNBAの顔としてイメージの改善にも努めます。

    本日は元祖ダンクアーティストでスポークスマンと役割を果たしたジュリアス・アービングを見ていきましょう。


    【テーマ】

    元祖ダンクアーティスト~ジュリアス・アービング~


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    目次
    1. ダンクアーティスト

    2. 受賞歴

    3. ABAとNBA

    4. スポークスマンとして


    5. まとめ


    1. ダンクアーティスト

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    ジュリアス・アービングのプレイは多くの少年たちを夢中にさせました。
    ・マイケル・ジョーダン(元NBA)
    ・ドック・リバース(NBAヘッドコーチ)
    ・ウィル・スミス(俳優)
    ・バラク・オバマ(元大統領)
    ・ドクター・ドレー(ラッパー)

    等多くの少年たちを魅了します。

    多くの少年たちを魅了したプレイの中でも3つの伝説的プレーを紹介します。
    ・レーンアップ(フリースローラインからのダンク)
    ・ロック・ザ・ベイビー
    ・ベースラインムーブ

    〇レーンアップ(フリースローラインからのダンク)
    1976年ABAでの最後のシーズンにスラムダンクコンテストが開催されました。

    アービングはフリースローラインから踏み切って見事に決めます。

    このパフォーマンスは観客の度肝を抜き、会場中が大きく沸きました。

    過去にもジム・ポラードやウィルト・チェンバレンが成功させたと言われてますが、映像で残っている最古のレーンアップとされています。



    〇ロック・ザ・ベイビー
    アービングが現役時代魅せた最高のダンク。

    1983年のレイカーズ戦、マイケル・クーパーからボールを奪ったアービングは速攻に転じました。

    追ってきたクーパーはアービングからボールを奪いに行くと、

    アービングは1度ボールを腹に抱えてクーパーを交わし、そのまま抱えたボールを大きく時計回りに振り回しそのまま豪快なウィンドミルを決めます。



    〇ベースラインムーブ(ダンクではありません)
    1980年のファイナルにアービングは最高のプレイを披露します。

    ゴールに向かってベースラインぎりぎりのところにドライブを仕掛けました。

    レイアップを打つためにジャンプしたアービングの目の前にはカリームが立ちはだかり、シュートコースは完全に塞がれたように見えましたが、

    驚異的な滞空時間を誇るアービングは空中でカリームを交わし、バックボード裏から長い腕を大きく振り回し、レイアップを決めました。




    2. 受賞歴

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    殿堂入り:1993

    永久欠番:ネッツ#32,シクサーズ#6

    〇ABA時代

    2×ABAチャンピオン:1974, 1976

    2×ABAプレーオフMVP:1974, 1976

    3×ABAシーズンMVP:1974-1976

    3×得点王:1973, 1974, 1976

    オールABAチーム
     4×オールABA1stチーム:1973-1976
     オールABA2ndチーム:1972 

    5×ABAオールスターゲーム出場:1972-1976

    〇NBA時代

    NBAチャンピオン:1983

    MVP:1981

    オールNBAチーム
     5×1stチーム:1978, 1980-1983
     2×2ndチーム:1977, 1984

    11×NBAオールスターゲーム出場:1977-1987

    〇基本情報

    愛称: ドクターJ

    身長: 201㎝

    体重: 96㎏

    所属チーム: 
    1971-1973バージニア・スクワイアーズ(ABA)
    1973-1976ネッツ(ABA)
    1976-1987シクサーズ(NBA)
         
    ポジション: スモールフォワード

    出身: アメリカ(ニューヨーク州ルーズベルト)

    ドラフト: 


    3. ABAとNBA

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    〇ABA時代

    大学を中退したアービングは鳴り物入りでバージニア・スクワイアーズに入団します。

    「ダンク禁止」となっていた大学バスケットから解放されたアービングは一躍人気選手に躍り出ます。

    当時の大学バスケットはカリーム・アブドゥルジャバーが規格外過ぎてダンク等の一部のプレイを禁じていました。

    スクワイア―ズで2年目を迎えようとしていましたが、バックスがドラフト11位で指名します。

    当時のNBAは大学卒業の年齢までドラフトを禁止していました。

    そして、NBA側はABAに所属していてもドラフト指名してもいいという見解でした。

    更にびっくりすることにアービングはホークスと契約にサインしていたということです。

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    〇理由
    ・破格の条件が提示された
    ・ホークスのピート・マラビッチとのプレイを楽しみにしていた
    ・トレーニングキャンプで手ごたえを感じた

    当たり前ですが、スクワイア―ズは黙っていませんでした。

    アービング獲得合戦はスクワイアーズ、バックス、ホークスの3チームによる三つ巴の大騒動は裁判沙汰にまで発展し、スクワイア―ズに戻ることで決着がつきます。

    NBAの暗黒期、何でもありです。

    アービングは4年間ABAに所属しましたが、NBAに新規加入することになります。

    2回のABAチャンピオン、ファイナルMVPにABAの4シーズンで3回の得点王、シーズンMVPを獲得したアービングは名実ともにABA最高のスーパースターでした。

    〇NBA時代
    ネッツに所属していましたが、NBAに加入と同時に財政難に陥りシクサーズに放出されます。

    ※ネッツは財政難とエース不在で長い間低迷期に入ります。

    アービングのNBA入り、シクサーズに移籍は大きな話題を呼び、人々の間では「NBAがABAを吸収したのはアービングただ一人が欲しかったから」という噂が広まったほどでした。

    2年目以降はチームにもなじみオールNBAチームにも選出され、NBAの顔にもなります。

    中々優勝できませんでしたが、1983年にその時がやってきます。

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    シーズン前にモーゼス・マローンをを獲得したシクサーズは絶好調でシーズンを終えます。

    プレーオフ前にはマローンの有名なコメントも飛び出します。

    「フォー、フォー、アンド、フォー」
    ※プレーオフ、ファイナルを全試合スイープ(全勝)で完全勝利宣言をします。

    1敗しましたが、ほぼ全勝での優勝でアービングはNBAでは初のチャンピオンに輝きます。


    4. スポークスマンとして

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    アービングの功績として忘れてはならないことがあります。
    NBAのイメージを向上させたことです。

    NBAは薬物問題にABAの消滅等によって著しく汚れていました。

    1970年代後半にはカリーム・アブドゥルジャバーがいましたが、カリームは孤高を好む性格でしたので、アービングが自然とNBAの顔になりました。

    どれだけ賞賛されても図に乗ることもなく記者やファンと接する姿はまさに人格者でした。

    更にアービングは選手からも尊敬を集めました。

    当時はテレビ中継もなく人気選手だけが取りざたされる時代でした。

    アービングは人気選手として記者に囲まれるたびに、若い選手や無名の選手の話題を振るうことで彼らの知名度を上げることに力を貸したりもしました。

    不調に陥った選手にも積極的にパスを回し、自らの得点を犠牲にしてまでチームプレイに徹しました。

    〇アービング効果
    ・自分の名前を冠したバスケットシューズのモデルを発売した初めてのバスケットボール選手
    ・テレビ、コマーシャルや映画に出演
    ・シクサーズの観客動員数が25%ほどアップ

    アービングのおかげで1980年代のマジック・ジョンソン、ラリー・バードのNBA活性期に繋がりました。


    5. まとめ

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    ジュリアス・アービングはダンクシュートをより芸術的に、より独創的な域に到達させました。

    しかし、当時のNBAは暗黒期、ABAとの競争、薬物の蔓延等によりNBAは疲弊してました。

    カリーム・アブドゥルジャバーというスターがいましたが、カリームは孤高を好む存在でしたので、マジック・ジョンソンとラリー・バードの2選手が入団してくるまでNBAの顔としてイメージの改善にも努めました。

    アービングはABAとNBA両リーグにおいて史上唯一の最高の選手です。
    アービングの活躍は記憶に残るようなダンクシュートを始め、多くのファンの脳裏に焼き付いているでしょう。

    しかし、両リーグに在籍していたので通算記録は残っていません。

    通算得点はABAとNBA合わせると、史上7人しか達成していない3万得点に到達します。

    通算記録はABA記録は足されていません。

    現在は現役時代のアービングを知っているファンがいるので、アービングの功績も保たれています。

    しかし、何十年後アービングは元祖ダンクアーティストとしてしか見られないかもしれません。

    そんなことはないと思いますが。。。

    将来通算記録としてABAとNBAの記録が合算記録として残ることを期待しています。

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    2016-2017シーズン、ラッセル・ウェストブルックは約半世紀ぶりにシーズントリプルダブルを達成し、MVPを獲得しました。

    そのシーズンから3年連続でシーズントリプルダブルを達成し、Mr.トリプルダブルと呼ばれるようになります。

    しかし、半世紀前にシーズントリプルダブルを達成したオスカー・ロバートソンの時代は何とトリプルダブルという概念じたいありませんでした。

    元祖Mr.トリプルダブルのオスカー・ロバートソンはトリプルダブルという概念がない時代にトリプルダブルを量産したのです。

    本日は元祖Mr.トリプルダブルで歴代最多のトリプルダブル数を誇るオスカー・ロバートソンを見ていきましょう。

    【テーマ】

    元祖Mr.トリプルダブル~オスカー・ロバートソン~


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    目次
    1. Mr.トリプルダブル

    2. 受賞歴

    3. カリーム・アブドゥルジャバーと共に

    4. 高校、大学時代と人種差別


    5. まとめ


    1. Mr.トリプルダブル

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    〇トリプルダブルとは。。。
    1試合で得点、リバウンド、アシスト、スティール、ブロックのうち3つのスタッツで二桁の数字を記録すること

    1980年代マジック・ジョンソンが得点、リバウンド、アシストを量産し、「トリプルダブル」と世間が言い始めました。

    そして、ふと疑問が沸きます。
    オスカー・ロバートソンもマジック並みのトリプルダブルを達成しているのではないかと

    早速調べてみると驚愕の事実が発覚します。

    トリプルダブルをキャリアで181回達成し、シーズン2年目にはシーズントリプルダブルを達成していたのです。


    ロバートソンも「そんなに凄いことなら、毎年やっていたのに」と語りました。

    意識しないで181回達成しているので、意識していたら間違いなく200回は達成していたでしょう。

    〇トリプルダブル通算数ランキング
    1. 181回 オスカー・ロバートソン
    2. 146回 ラッセル・ウェストブルック
    3. 138回 マジック・ジョンソン
    4. 107回 ジェイソン・キッド
    5. 94回 レブロン・ジェームス
    6. 78回 ウィルト・チェンバレン
    7. 59回 ラリー・バード
    8. 46回 ジェームス・ハーデン
    9. 43回 ラファイエット・リーバー
    10. 40回 ニコラ・ヨキッチ

    ※ウィルト・チェンバレンがちゃっかり6位に位置していてびっくりです。

    近代バスケットはオールラウンダーが当たり前になっています。

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    10位のニコラ・ヨキッチにいたってはセンタープレイヤーとしてランキングに入っています(チェンバレンは規格外なので除きます)

    なので、数年後ランキングには現在現役でプレイしている選手が多く入ってくるでしょう。

    しかし、181回に届く選手は何人いるでしょうか?
    ウェストブルックにはチャンスがありますが、他の選手は5,10年後の話です。

    もちろん5,10年後も同じスタッツを残していたらの話ですが。。。

    当時トリプルダブルという概念がない時代にトリプルダブルを181回も達成したオスカー・ロバートソンは偉大なプレイヤーということが分かります。

    そして、ウェストブルックをはじめとした現役選手は181回を抜けるのか、どこまで近づけるのか注目です。


    2. 受賞歴

    殿堂入り : 1980

    永久欠番 : キングス#14 バックス#1

    NBAチャンピオン : 1971

    MVP : 1964

    新人王 : 1961

    オールNBAチーム
     9×1stチーム :  1961-1969
     2×2ndチーム : 1970, 1971 

    12×NBAオールスターゲーム出場 : 1961-1972

    6×アシスト王 : 1961, 1962, 1964-1966, 1969

    〇基本情報

    身長: 196㎝

    体重: 100㎏

    所属チーム: 
    1960-1970 シンシナティ・ロイヤルズ(現キングス)
    2010-2017 バックス
         
    ポジション: ポイントガード

    出身: アメリカ(テネシー州シャーロット)

    ドラフト: 1960年 1位


    3. カリーム・アブドゥルジャバーと共に

    ロバートソンのキャリアは2つあります。
    ・圧倒的なスタッツを残したシンシナティ・ロイヤルズ(現キングス)時代
    ・黒子に徹しNBAチャンピオンに輝いたバックス時代

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    〇シンシナティ・ロイヤルズ(現キングス)時代
    ルーキーシーズンから新人王はもちろんオールNBA1stチーム 、アシスト王、オールスター出場にオールスターMVPを受賞し、輝かしいキャリアをスタートさせます。

    2年目にはシーズントリプルダブルを達成します。

    3年目にはシーズンMVPに輝きます。

    その後も輝かしい記録を次々と達成しますが、「優勝」という言葉には手が届きませんでした。

    そして、1970年にファンの誰もが衝撃を受けたトレードが行われます。

    更に衝撃なのがトレードされた理由です。
    ボブ・クージーHCの確執であり、彼が保持していた幾つかのNBA記録をロバートソンが次々と破っていったことに嫉妬したということです。ロバートソンはトレードについて「私は彼(クージー)が間違ってたと思うし、このことを決して忘れないと思う」と語っています。


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    〇黒子に徹しNBAチャンピオンに輝いたバックス時代
    バックスにトレードされたロバートソンはルー・アルシンダー(カリーム・アブドゥルジャバー)とタッグを組みます。

    ※歴代でも屈指のポイントガードとセンターの超強力タッグの成立です。

    ベテランの域に達していたロバートソンは2年目にしてリーグ屈指のセンターに位置していたカリームにエース座を託し黒子に徹します。

    1970-71シーズン、カリーム中心のバックスは圧倒的な力でNBAを支配し、12勝2敗でファイナルに進出しファイナルではスイープ(4連勝)で初優勝を手にします。

    ロバートソンのスタッツは著しく低くなりましたが念願のNBAチャンピオンを手にしました。

    ※カリームは得点王、シーズンMVP、ファイナルMVPを獲得しました。


    ロバートソンは足に慢性的な故障を抱えており、3年後現役に幕を閉じました。

    ロバートソンはバスケットボールという競技そのものに大きな影響を与えた選手でもあります。彼は「背の低い選手が務める」というポイントガードの概念を打ち破りました(後のマジック・ジョンソン達に繋がっていきます)また1980年代から広まったポイントフォワードのはじまりでもあります。またヘッドフェイクやフェイダウェイ・ジャンプシュートなど、当時はまだ新しかった技術の普及にも貢献しました。


    4. 高校、大学時代と人種差別

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    ロバートソンは人種差別が色濃く残る時代を生きた選手です。

    この時代のこども達は野球に熱中していましたが、野球道具を揃えることができなかったロバートソンは果物カゴをぶら下げた壁に向けて、布を丸めたもの投げて遊んだことがバスケットボールのキャリアの始まりです。

    ロバートソンは体育館のある高校に進学したかったが、体育館のある学校は白人学校だったため入学を拒否されてしまいます。

    結局、黒人学校でバスケットボールに打ち込める高校は1校しかなくそこに進学し、恩師と出会います。

    クロウコーチはロバートソンの才能を見抜き基礎からみっちりと鍛え上げます。

    その成果は翌年から花が咲き、3年時には黒人学校が初の州チャンピオンに輝き、翌年は2連覇を達成します。

    しかし、コートから1歩出れば差別される黒人の1人に過ぎず、優勝祝賀パーティーを開こうとしましたが、街から追い出される扱いを受けてしまいます。

    大学に進学してもロバートソンの快進撃は続きます。

    全てのシーズンで得点王、最優秀選手に輝き14のNCAA記録を塗り替えましたが、黒人選手がコート上で活躍する姿が白人には受け入れられず、遠征時にはホテルの宿泊を拒否されるのは当たり前で、大学の宿舎に泊まらなければならないことは日常茶飯事でした。


    5. まとめ

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    2016-2017シーズン、ラッセル・ウェストブルックは約半世紀ぶりにシーズントリプルダブルを達成し、MVPを獲得しました。

    しかし、半世紀前にシーズントリプルダブルを達成したオスカー・ロバートソンの時代は何とトリプルダブルという概念じたいありませんでした。

    元祖Mr.トリプルダブルのオスカー・ロバートソンはトリプルダブルという概念がない時代にトリプルダブルを量産したのです。

    ロバートソンの功績として忘れてはならないことがあります。
    オスカー・ロバートソン訴訟を起こし、フリーエージェント制度を勝ち取ったことです。

    記事↓
    幻のバスケットボールリーグ『ABA』が残したものは!?

    黒人として差別を受けてきたロバートソンは
    当時の選手は奴隷条項と呼ばれ、チームとの契約の際不利な立場となっていたことが許せなかったのでしょう。

    この出来事は北米プロリーグに衝撃を与えます。

    ロバートソンは優勝、シーズンMVPを1度しか受賞していません。

    しかし、歴代屈指のオールラウンダー選手として評価は高いです。

    それは、ロバートソンのプレイが圧倒的でインパクトがあり華があったからだと思います。

    歴代屈指のオールラウンダー選手で歴代屈指のポイントガードのオスカー・ロバートソン。

    元祖Mr.トリプルスリーと言われていますが、まだ181回は抜かれていません。

    現代バスケはオールラウンダーが主流なのでいつかは抜かれるでしょう。

    将来誰かが182回目を達成した時改めてオスカー・ロバートソンの功績が評価されるでしょう。

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    レブロン・ジェームス、ドウェイン・ウェイドとヒートのビック3を組みましたが、あまり目立つ存在ではありませんでした。

    バッシングを浴びることもありましたが、チームのために我を捨て、レブロンとウェイドの黒子としてチームを支える選択をします。

    念願の優勝、連覇を果たしヒートでキャリアを全うしようとしましたが、血栓症という選手生命を脅かす病気に侵されてしまいます。

    NBAのコートに戻ることを望んでいましたが、治療、復帰、再発、治療と病気はボッシュを再びコートに立つことを許してはくれませんでした。

    本日はチームプレイに徹し、病気と闘ってきたクリス・ボッシュを見ていきましょう。


    【テーマ】

    ヒートビックスリーの大黒柱~クリス・ボッシュ~


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    目次
    1. ヒートのビックスリー

    2. 受賞歴

    3. 病気

    4. 
    チームのエースとして~ラプターズ時代~

    5. まとめ



    1. ヒートのビックスリー

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    2010年7月7日にボッシュはヒートへの移籍を決めました。数日後レブロン・ジェームスもヒートへの移籍を発表し、ヒートのビックスリーが結成します。

    2007年に結成したセルティックスのビックスリーも話題をかっさらいましたが、ヒートのビックスリーはそれ以上でした。

    〇理由
    セルテックスビックスリーのKGとレイ・アレンは再建のため放出(放出されるまでにいろいろありましたが)
    ヒートのビックスリーはこれから全盛期を迎えるレブロンとボッシュの移籍

    チームはレブロンとボッシュの残留を望んでいましたが、2選手とも優勝するためにビックスリーを結成したのでヒートファン以外からは大バッシングでした。

    特にキャバリアーズのファンはレブロンの移籍に激怒しユニフォームを燃やすほど、ヒートアップしていました。

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    セルティックスのビックスリーが後の時代に与えた影響

    ビックスリー結成当初はどれだけの勝率を残して優勝するか世間は注目していましたが、そこまで甘くありませんでした。

    〇理由
    ・それぞれのチームで数年間エースとして活躍してきたのでケミストリーが構築できなかった。
    ・常に歓声を受けていた3人がそれを上回るブーイングを常に受けていたため精神的にきつかった。

    しかし、個々の力は圧倒的だったので、プレイオフに進出しファイナルにも辿りつきました。

    下馬評では圧倒的に有利と言われていましたが、マーベリックスに負けてしまい悲願は達成できませんでした。

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    オフシーズン3人はそれぞれ決断します。
    レブロン・・・ローポストゲームができる選手が必要としていたヒート。その役を自ら買いアキーム・オラジュワンも下でドリームシェイク(ポストプレイの極意)を学びました。

    ウェイド・・・チームエースの立場をレブロンに渡しセカンドオプションになる決断をします。

    ボッシュ・・・チームのサードオプションとしてレブロン、ウェイドにスペースを明け渡し、苦手としていたアウトサイドからのシュートとディフェンスを徹底的に磨きました。

    チームを第一に置いたビックスリーは快進撃を見せます。

    圧倒的な強さでレブロン、ボッシュにとっては初優勝、ウェイドにとっては2回目の優勝を。翌シーズンには3人にとって初めての連覇を達成します。

    3連覇(スリーピート)を目指した翌シーズンはファイナルでスパーズに苦汁を飲まされましたが、ビックスリー結成の4年間で、
    4度のファイナル進出に2度の優勝を手にしました。

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    ビックスリー結成後のボッシュはスタッツは伸び悩み、レブロンとウェイドのように結果を残せていなかったため批判の対象となっていました。

    しかし、2年目以降はチームプレイに徹しました。

    苦手なディフェンスを気持ちでカバーし、オフェンスも苦手だった3Pシュートを練習し確率を年々上昇させていきます。

    地味な役回りだったのでレブロンやウェイドのように光が当たることはほとんどなくなりましたが、ヒートのビックスリーを支えたのは間違いなくボッシュです。

    チームのために個を犠牲にしてプレイスタイルさえも変えた元チームエースのボッシュは、過小評価されがちですが間違いなく偉大なバスケットボールプレイヤーの1人です。



    2. 受賞歴

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    永久欠番: ヒート#1

    2×NBAチャンピオン : 2012, 2013

    11×NBAオールスターゲーム出場 : 2006-2016

    オールNBAチーム
     2ndチーム : 2007

    NBAオールルーキーチーム 1stチーム : 2004

    〇基本情報

    身長: 211㎝

    体重: 107㎏

    所属チーム: 2003-2010ラプターズ 2010-2017ヒート
         
    ポジション: パワーフォワード、センター

    出身: アメリカ(テキサス州ダラス)

    ドラフト: 2003年 4位


    3. 病気

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    2014年レブロンがキャバリアーズに戻り、ビックスリーが解散します。

    ボッシュは5年1億1800万ドルのマックス契約を交わし2014-15シーズンが始まりました。

    レブロンがいなくなった中、セカンドオプションとなっていたボッシュはラプターズ時代に近いスタッツを残します。

    2015年のオールスター後に悲劇が訪れました。
    肋骨付近に痛みを感じたボッシュは精密検査を受けます。

    診察した医師は血栓がある可能性を指摘します。

    更なる精密検査の結果、肺血栓が見つかり残りの試合全ての欠場が決まります。

    治療とリハビリを経て2016-17シーズンの開幕戦で復帰し、21得点10リバウンドを記録し完全復活をアピールしましたが、再発してしまいます。

    再びコートに戻るために治療を続けましたが、球団にも医者にもプレイすることを止められ、ヒートと契約を解消しました。

    ボッシュは現役復帰を模索していましたが、プレーすれば生命の危険が伴うボッシュと契約する球団はありません。

    2019年3月26日、ヒートがボッシュの背番号#1永久欠番セレモニーの席で現役引退を発表しました。


    4. チームのエースとして~ラプターズ時代~

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    レブロン・ジェームス、カーメロ・アンソニー、ドウェイン・ウェイド等そうそうたるメンバーとなった2003年のドラフト。

    ボッシュはドラフト4位でラプターズに入団しました。

    当時のラプターズはガタガタでした。
    エースのヴィンス・カーターはチームにトレードを要求しており、チームの方針が決まらない中、ボッシュが入団してきます。

    ラプターズはルーキーシーズンから活躍したボッシュをチームの中心に添えようとしたのでカーターはラプターズを出ていきます。

    ラプターズがカーターからボッシュにチームの中心を変えた理由
    怪我とモチベーションの低下でパフォーマンスが落ちていた為

    入団2年目の途中からチームの中心がボッシュに変わり、翌年にはチームキャプテンに任命され名実ともにボッシュのチームに生まれ変わります。

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    2006-07シーズンにはチーム史上初めてデビジョン優勝を果たし、一流のビックマンの証である20得点10リバウンドを達成すると、オールスターでは初の先発に選ばれます。

    2007年のオールスターは
    レブロン、ウェイド、ボッシュの2003年組がスターターに名を連ね大いに盛り上がりました。

    2009-10シーズンまでチームのエースとして古墳奮闘しましたが、
    7年間の在籍で2度しかプレーオフに進出できず、どちらも1回戦負けでした。

    チームからは残留を強く望んでいましたが、優勝するためにヒートへの移籍を決めます。


    5. まとめ

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    念願の優勝、連覇を果たしヒートでキャリアを全うしようとしましたが、血栓症という選手生命を脅かす病気に侵されてしまいます。

    NBAのコートに戻ることを望んでいましたが、治療、復帰、再発、治療と病気はボッシュを再びコートに立つことを許してはくれませんでした。

    永久欠番セレモニー(引退セレモニー)
    「自分の人生において、選手としてのパートはおしまい。自分にとって難しいことだったけれど、もう大丈夫。(受け入れるまで)時間がかかってしまった。もっとやれていたかもしれない。でも、そういう時期は過ぎ去ったんだ。もう(現役続行を)追い求めないことを決めた。辛かったけれど、もう大丈夫」

    とコメントを残しています。

    いろいろな引退の理由があります。
    クリス・ボッシュは一番悔いの残る「病気」が理由です。

    血栓が発覚してから4年過ぎて「現役続行を追い求めないことを決めた」とコメントしたボッシュ。

    心の整理に4年間必要だったことを考えても苦汁の決断だったでしょう。

    しかし、「現役続行を追い求めないことを決めた」と断言した以上、現役続行以外のものを追うことにしたのかもしれません。


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    引退後ビジネス家として活躍しています。また、現役時代から財団を設立し子供たちのためにサポートしています。

    多趣味で有名なボッシュなので、現在はどこに照準を合わせているか分かりませんが、
    近い将来照準がバスケットに向くと私は考えています。

    なぜなら球団にも医者にもコートに立つことを止められていたのにも関わらず、最後まで諦めなかったからです。

    バスケット愛は誰よりも強いと思うからです。


    ボッシュはコーチ等には興味がないらしいのですがフロントオフィスの仕事に就く可能性については検討しているようです。

    できることならバスケットに関わる仕事に就いてほしいですが、病気で引退を余儀なくされたので、第2の人生は誰よりも楽しんでほしいと思います。

    最後にチームのエースから黒子まで務めたボッシュの活躍をご覧ください。

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    スティーブ・ナッシュはシーズンMVPを2度獲得し、サンズ時代には現代バスケットの始まりとも言える『7秒以内にショットするオフェンス』を駆使してNBAに新たな風を吹かせました。

    ナッシュの代名詞はアシストですが、シューターとしても8人しか達成していない『50-40-90クラブ』を4回達成しています。

    しかし、ナッシュには不遇の時代もありました。ドラフト15位でサンズに指名された際、サンズファンからブーイングを受けたそうです。

    ナッシュは1度サンズを離れますが、再びサンズに戻って英雄となりました。

    本日はサンズの英雄となったスティーブ・ナッシュを見ていきましょう。


    【テーマ】

    サンズ伝説の7秒オフェンスの勇~スティーブ・ナッシュ~


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    目次
    1. 7秒オフェンスとMVP

    2. 受賞歴

    3. 『50-40-90』

    4. 
    カナダ人初のMVP

    5. まとめ


    1. 7秒オフェンスとMVP

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    2004-05シーズン、NBAを支配していたのはビックマン達でした。
    ・レイカーズのシャキール・オニール
    ・スパーズのツインタワー

    しかし、当時サンズのダントーニHCは高さに対してスピードで仕掛けるバスケを展開します。

    『7秒以内にショットするオフェンス』という過去に例もない戦術でした。

    〇基本的な考え方
    得点をするのに一番効率の高いシュートは3Pシュート、一番確率が高いシュートはゴール下です。

    『7秒以内にショットするオフェンス』は効率と確立を突き詰めた戦術だったのです。

    〇基本的な攻め方
    1. ナッシュはボールを持って敵陣に侵入します。

    2. センター以外の3選手は両サイドの3Pラインに陣取ります。

    3. ピック&ロールでゴール下に切り込みます。

    4. ナッシュかセンターがゴール下で決める。

    4. ナッシュが3Pラインで待ち構えている3人の選手にパスをだして3Pシュートを決める。

    基本的な考え方、攻め方を見れば分かりますが、この戦術に欠かせない選手(ポジション)があります。
    それは、スティーブ・ナッシュ(ポイントガード)です。

    決定力と展開力を持っていたナッシュはダントーニが目指すバスケに必要な人物だったのです。

    そして、サンズはナッシュを中心としてNBAを支配しますが、優勝はできませんでした。

    肝心な試合で主力選手が怪我をしてしまったこともありますが、スローペースで展開されるプレーオフはロースコアになりやすく、ディフェンス力がものを言います。

    サンズのオフェンス力は群を抜いていましたが、ディフェンス力も悪い方に群を抜いていました。

    どのチームより魅力的なバスケを展開していましたが、肝心なところで勝てなかった戦術は次第に否定されていきます。

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    現在、ウォリアーズとロケッツが当時のサンズ、もしくはそれ以上のバスケを展開し、結果を残しています。

    サンズがやってのけた魅力的なバスケ『7秒以内にショットするオフェンス』は現在更なる進化を果たし、バスケットの進化に大きく貢献しています。

    どのチームより魅力的なバスケを展開したサンズの司令塔ナッシュは2年連続でMVPに輝きました。


    2. 受賞歴

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    殿堂入り: 2018

    永久欠番: サンズ#13

    2× シーズンMVP: 2005–2006

    8× NBAオールスターゲーム: 2002-2003, 2005–2008, 2010, 2012

    オールNBAチーム
     3× オールNBAファーストチーム: 2005-2007
     2× オールNBAセカンドチーム: 2008, 2010
     2× オールNBAサードチーム: 2002-2003

    5× アシスト王: 2005-2007,2010-2011

    4× 50–40–90クラブ: 2005, 2007–2009

    〇基本情報

    身長: 191㎝

    体重: 81㎏

    所属チーム: 
    サンズ: 1996-1998
    マーベリックス: 1998-2004
    サンズ: 2004-2012
    レイカーズ: 2012-2015
         
    ポジション: ポイントガード

    出身: 南アフリカ、後にカナダに移住

    ドラフト: 1996年 15位



    3. 50-40-90


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    『50-40-90クラブ』とは

    1シーズンにおいて、「フィールドゴール50%」「3Pシュート40%」「フリースロー90%」を「フィールドゴール300本」「3Pシュート82本」「フリースロ125本」以上成功させることです。


    『50-40-90クラブ』とは最高のシューターの証です。

    歴代で達成した選手は8選手のみです。

    ・ラリー・バード(1986-87、1987-88)
    ・マーク・プライス(1988-89)
    ・レジー・ミラー(1993-94)
    ・スティーブ・ナッシュ(2005-06、2007-08、2008-09、2009-10)
    ・ダーク・ノヴィツキー(2006-2007)
    ・ケビン・デュラント(2012-13)
    ・ステフィン・カリー(2015-16)
    ・マルコム・ブログドン(2018-19)


    ※3Pシュートが始まったのは1979-80シーズンからなのでそれ以前の選手は選ばれていません。

    ナッシュは過去に8人しか達成していない最高のシューターに送られる証を4回達成しています。

    〇一番の成績は2005-06シーズン

    「51-44-92」で成功本数は「541-150-257」という記録を残しています。

    ナッシュが凄いのはキャリアで「49-42-90」とほぼ『50-40-90クラブ』を達成しているという事です。

    ナッシュの代名詞はアシストですが、シューターとしても歴代トップクラスというのがよく分かります。


    ちなみに、ステフィン・カリーが化け物スタッツを残して達成しています。

    「50-45-91」で成功本数は「805-402-363」

    ※3P成功本数402はNBA記録です。そして、平均得点も30得点を越えています。



    4. カナダ人初のMVP


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    ナッシュはカナダ人初のMVPを獲得しましたが、スーパースターのような華やかな道は辿ってきてはいません。

    高校時代州の最優秀選手に選ばれましたがカナダの田舎の学校だったため、30の大学に推薦状を送りましたが興味を示したのは1校のみでした。

    大学バスケで活躍したのにも関わらず、カナダ出身ということもあり注目されず、当時カナダ人最高のドラフト15位でサンズに指名されましたが、サンズファンからブーイングが起こりました。

    注目されていなかったナッシュを指名したことと、ケビン・ジョンソンとジェイソン・キッド等の優秀なPGが揃っているにも関わらずPGを選択したため


    サンズに入団後の2年はPGが揃っている中、活躍どころか出場機会も少なくベンチを温めていましたが、

    マーベリックスに移籍し、今まで不遇な扱いを受けていた鬱憤を晴らすかのような活躍をします。


    マーベリックスには同じ外国籍選手のダーク・ノヴィツキーが在籍していたので親友となり、2人が奏でるバスケはマーベリックスを一気に強豪チームに変貌させました。

    6年間マーベリックに所属し、4年連続でプレイオフに進出しましたが、結果は残せませんでした。

    FAとなったナッシュは残留を希望していましたが、

    マーベリックスは30歳を超えたナッシュよりもノヴィツキー中心のチームに移行しようとしていたので、ナッシュに低い契約を提示します。


    結果、ナッシュはサンズに復帰し遅咲きではありますが本当の意味での活躍が見られます。

    ノヴィツキーの記事もご覧ください↓
    歴代ヨーロッパ最強の選手ダーク・ノヴィツキー


    5. まとめ


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    スティーブ・ナッシュはシーズンMVPを2度獲得し、サンズ時代には現代バスケットの始まりとも言える『7秒以内にショットするオフェンス』を駆使してNBAに新たな風を吹かせました。

    〇ナッシュは殿堂入り式典のスピーチで

    「自分たちがプレイした時期に、フェニックス・サンズのファンに優勝をもたらせなかったことを考えるとつらい。たしかに、僕たちは運に見放されたときもあった。でも、過去を振り返ると、こう思ってしまう自分がいる。『あのとき、あと1本ショットを決められていたら』、『あのとき、ターンオーバーを記録していなかったら』、『あのとき、もっと良いパスを選択できていたら』と。それでも、僕は後悔していない。アリーナは常に満員のファンで埋め尽くされ、揺れていた。僕の人生に残る瞬間だった。フェニックスに感謝しています」


    スピーチ後、拍手喝采を浴びます。

    ブーイングで始まったNBAキャリアは、不遇の時を経て最高のNBA選手に変貌しました。


    ナッシュがいなければサンズの『7秒以内にショットするオフェンス』は完成していなかったでしょう。

    そして、現代バスケもなかったのかもしれません。

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    現役引退後はウォリアーズの選手育成コンサルタントに就任し、コーチとして後輩であるステフィン・カリー等の指導に当たっていました。

    2000年代を変えたポイントガードから2010年代を変えたポイントガードにバトンを渡した瞬間でもあります。


    時代を変えたバスケを展開したサンズ。その中心にいたナッシュ。

    ナッシュは間違いなく歴代屈指のポイントガード選手と呼べるでしょう。


    最後にサンズの英雄となったナッシュのプレイをご覧ください。


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    アキーム・オラジュワンは1980年代から1990年代にかけて最強センターの名を手にしました。

    ゴール下でのフットワークは常軌を逸しており、オラジュワンが繰り出すフェイクとスピンムーブは「ドリームシェイク」とも言われ、他チームからは驚異となっていました。

    ディフェンスにおいてもリバウド数は歴代13位、ブロック数は歴代1位、スティ―ルにおいてもセンターにも関わらず歴代10位に位置しています。

    一時代のトッププレイヤーとして名前を残してもおかしくないようなスタッツとインパクトを残していますが同時期にはあの男がいたため、トッププレイヤーにはなれませんでした。

    本日は必殺の「ドリームシェイク」を武器に1980年代から1990年にかけて最強のセンターと呼ばれたアキーム・オラジュワンを見ていきましょう。

    【テーマ】

    華麗なるドリームシェイクで最強を手にした男~アキーム・オラジュワン~


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    目次
    1. 必殺技『ドリームシェイク

    2. 受賞歴

    3. 連覇

    4. オラジュワン道場

    5. 
    まとめ



    1. 必殺技『ドリームシェイク


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    1980年代から1990年代にかけては歴代でも屈指のセンターが数多くいました。

    ・カリーム・アブドゥルジャバー
    ・パトリック・ユーイング
    ・デイビッド・ロビンソン
    ・シャキール・オニール
    等いましたが、


    カリームから最強のセンターの座を受け継いだのはアキーム・オラジュワンです。

    センターでありながらガード並みのボールハンドリングやフットワークを持っていました。

    そこに、フェイクも加えることにより、必殺技『ドリームシェイク』の完成です。

    更にシュートバリエーションも多彩でしたのでどうしようもありません。


    高さやパワーが主戦場のセンターというポジションで、『ドリームシェイク』を武器に暴れまくり、ロケッツの2連覇に貢献しました。

    スパーズのデイビッド・ロビンソンは歴代でも屈指のセンターでしたが、「彼のスピンムーブを止められる選手はいない」と言わしめるほどです。

    ちなみに。。。

    1990年のバックス戦に史上4人しか達成していないクアドルプルダブルを達成しました。

    18得点10アシスト16リバウンド1スティール11ブロック

    ※クアドルプル・ダブルとは・・・得点、リバウンド、アシスト、スティール、ブロックショットの5つのうち4つの項目において2桁数を記録すること

    ※1974年以前にはスティールとブロックショットは公式には記録されていなかったため、1973年以前にも達成者がいたと予想されます。
    (ウィルト・チェンバレン、ビル・ラッセル、オスカー・ロバートソン等)



    2. 受賞歴


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    殿堂入り: 2008

    永久欠番: ロケッツ#34

    2×NBAチャンピオン : 1994-1995

    2×NBAファイナルMVP : 1994-1995

    MVP : 1994

    12×NBAオールスターゲーム出場 : 1985-1990, 1992-1997

    オールNBAチーム
     6×1stチーム : 1987~1989, 1993-1994, 1997
     3×2ndチーム : 1986, 1990, 1996
     3×3rdチーム : 1991, 1995, 1999

    2×NBA最優秀守備選手賞 : 1993-1994

    NBAオールディフェンシブチーム
     5×1stチーム : 1987-1988, 1990, 1993-1994
     4×2ndチーム : 1982, 1991, 1996-1997

    NBAオールルーキーチーム 1stチーム : 1985

    2×リバウンド王 : 1989-1990

    3×ブロック王 : 1990-1991, 1993

    〇基本情報

    身長: 213㎝

    体重: 115㎏

    所属チーム: ロケッツ:1984-2001 ラプターズ2001-2002
         
    ポジション: センター

    出身: ナイジェリア(ラゴス州ラゴス)

    ドラフト: 1984年 1位



    3. 2連覇


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    〇マイケル・ジョーダン 6×NBAチャンピオン

    1991-1993 1996-1998


    ジョーダンが達成した2度の3連覇は有名ですが、MLBに挑戦していた2年間はオラジュワン擁するロケッツが2連覇を達成します。

    全盛期だったジョーダンの突然の引退はアメリカのみならず全世界に衝撃を与えました。

    しかし、ジョーダンという絶対的ヒーローの影にいた2番目のヒーロー達にとってはナンバー1になるためのチャンスでもありました。

    結果、オラジュワンがナンバー1になるのですが、ジョーダンがNBAに復帰して3連覇を達成したため、オラジュワンの2連覇は影を潜めます。


    ※オラジュワンは1984年のドラフト1位でしたが、3位にマイケル・ジョーダンがいたため、誰にも恥じないスタッツを残しても、ジョーダンと比べられ、叩かれることもあり精神的にも落ち込んだ時期もありました。


    〇1993-1994

    全盛期を迎えていたオラジュワンはこのシーズンMVPを獲得し、ファイナルに進出します。

    相手はパトリック・ユーイング擁するニックス。

    ※ユーイングとは大学の決勝で負けた時以来の因縁の対決として注目を浴びました。

    ニックスはオラジュワンを止めるためにユーイングだけでなく数々の選手を当てスタミナを削る作戦が功を奏し、第7戦までもつれる展開になりましたが、最後はオラジュワンが決めます。

    オラジュワンはロケッツを悲願の初優勝に導きました。


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    〇1994-1995

    連覇を目指し、大学時代のチームメイト、クライド・ドレクスラーを加えたロケッツは、昨シーズンより勝ち星は伸ばせませんでしたが、ファイナルに進出します。

    ファイナルでは、若き日のシャック擁するマジック。「シャック・アタックvsドリーム・シェイク」で話題を集め、下馬評ではマジック有利と言われていましたが、

    オラジュワンがシャックを圧倒し、スイープ(4連勝)でマジックを下しました。

    ロケッツは2連覇を達成し、オラジュワンはNBAの顔になります。

    ロケッツの優勝は後にも先にもこの2連覇のみなので、ヒューストンにとってオラジュワンは英雄となっています。


    「シャック・アタックvsドリーム・シェイク」で話題を集めたファイナルの様子をご覧ください。



    4. オラジュワン道場


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    オラジュワンは現役引退後、スキルトレーナーとしても活躍しています。

    コービーがポストでの支配力を高めたいとオラジュワンにコーチの依頼をしたことがきっかけでした。

    コービーは現役選手として全盛期のオラジュワンを見ているのでより高みを目指すために『ドリームシェイク』の極意を知りたかったと思われます。

    コービーが認める『ドリームシェイク』はやはりすごかったと分かるエピソードでもあります。
    ※コービーは1996年からコートに立っているので全盛期のオラジュワンを見ています。


    その後、コービーがポストプレーでも活躍すると、オラジュワン道場の門を叩く選手が現れます。

    ・レブロン・ジェームス
    ・ドワイト・ハワード
    ・アマーレ・スタウダマイヤー
    ・カーメロ・アンソニー
    ・ジャベール・マギー
    等の選手を指導したそうです。


    今後も数多くの選手が門を叩くことになるでしょう。


    5. まとめ


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    ゴール下でのフットワークは常軌を逸しており、オラジュワンが繰り出すフェイクとスピンムーブは「ドリームシェイク」とも言われ、他チームからは驚異となっていました。

    一時代のトッププレイヤーとして名前を残してもおかしくないようなスタッツ、インパクトを残していますが同時期にはマイケル・ジョーダンがいたため、本当の意味でのトッププレイヤーにはなれませんでした。

    ジョーダンの陰に潜んでしまった選手の代表、アキーム・オラジュワン。

    歴代最高のセンターは?という問いに、ウィルト・チェンバレン、ビル・ラッセル、カリーム・アブドゥルジャバー、シャキール・オニール等の名前が上がるでしょう。

    しかし、オラジュワンの存在も忘れてはなりません。


    私は歴代最高のセンターがアキーム・オラジュワンだとは思いませんが、その議論に名前が上がる選手だと思います。


    マイケル・ジョーダンという光の一番の被害者アキーム・オラジュワン。

    アキーム・オラジュワンを知らなかった方はぜひ抑えておいて下さい。損はしません。


    最後にもう一度オラジュワンのプレイをご覧ください。


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