スコッティ・ピッペンはマイケル・ジョーダンと共にブルズの全盛期を支え、6度の優勝に貢献しました。
攻守にわたり最高レベルのオールラウンダーとして活躍しましたが、ジョーダンというあまりにも大きすぎる光がピッペンを史上最高のナンバー2で最も過小評価された男として位置づけてしまいます。
しかし、歴代屈指のSF(スモールフォワード)であることには変わりなく、もちろんスーパースターでもあります。
今日は光と共に輝き続けたスコッティ・ピッペンを見ていきましょう。
【テーマ】
2. 受賞歴
3. 過小評価
4. 歴代屈指の選手
5. 歴代屈指のスモールフォワード
6. 貧乏からNBAプレイヤーに
7. まとめ
しかし、結果は伴わず父にも「相棒を探せ」と言われるようになります。
殿堂入り: 2010
永久欠番: ブルズ#33
6×NBAチャンピオン: 1991-1993, 1996-1998
7×NBAオールスターゲーム出場: 1990, 1992-1997
NBAオールスターゲームMVP: 1994
スティール王 : 1995
オールNBAチーム
3×1stチーム: 1994-1996
2×2ndチーム: 1992, 1997
2×3rdチーム: 1993, 1998
NBAオールディフェンシブチーム
8×1stチーム: 1992-1999
2×2ndチーム: 1991, 2000
〇基本情報
〇マイケル・ジョーダンの現状(ジョーダンのライバルは?)
1992年のバルセロナオリンピックからNBAは世界中に知れ渡り、ジョーダンはNBAの看板選手としての役割も果たしています。
※オリンピック代表選手たちのことをドリームチームと呼びました。
ドリームチームについて
しかし、ピッペンの実力は誰もが認めています。
ピッペンは歴代屈指のオールラウンドディフェンシブプレイヤーと言われています。
オールNBAチームに7回 、NBAオールディフェンシブチーム10回選出され、フォワードでは珍しいスティール王にも輝いています。
〇ブルズが初めてチャンピオンになった1991年NBAファイナルのレイカーズ戦
〇ジョーダン引退後
〇6度目の優勝シーズン
【ジョーダンとの1on1】
ピッペンの特筆すべき点は他にもあります。
ピッペンはただのオールラウンダーではありません。
ジョーダンも全盛期と晩年ではプレイスタイルは変わります。
ブルズを移籍した後も役割は変わりましたが、その役割を完璧にこなしました。
歴代屈指のオールラウンダーで、エースやチーム状況によってプレイスタイルを変えることができるピッペン。
本当の意味で歴代最高のスモールフォワードなのかもしれません。
ピッペンは12兄弟の末っ子でした。
父親が脳出血で倒れ、兄弟が2人病気で亡くなるほど生活は不幸と困窮を極めます。
働けなくなくなった父親の代わりに家族全員で働き、何とか食いつないでいました。
ピッペンはろくな食事をとっていなかったので、体は小さく高校で175㎝70㎏でした。
奨学金を得てまともな食事をとるようになると、みるみる成長し周囲からも「誰?」と言われるほどになります。
ピッペンの体が出来上がるとバスケットの才能が開花し、ブルズのジェリー・クラウスGMの目に留まります。
スコッティ・ピッペンはマイケル・ジョーダンと共にブルズの全盛期を支え、6度の優勝に貢献しました。
ジョーダンというあまりにも大きすぎる光がピッペンを史上最高のナンバー2で最も過小評価された男として位置づけてしまいます。
なので、ピッペンはこう言われます。
他のチームに移籍すれば、エースになれたのかもしれません。しかし、ブルズに残る選択をします。
なので、
史上最高のナンバー2で終わってしまいましたが、ピッペンの成し遂げたことは誰にもまねできません。
最後に史上最高のナンバー2で最も過小評価された男をご覧ください