NBAスポーツ速チャン

NBA好きです。2009年たまたまテレビに映ったコービーの姿に衝撃を受け、レイカーズの試合を中心にみるようになり、ブログを始めました。ただただNBA好きのおじさんです。NBAやBリーグの話題を2chからまとめて紹介しています。

    カテゴリ:NBA > 歴代選手

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    アキーム・オラジュワンは1980年代から1990年代にかけて最強センターの名を手にしました。

    ゴール下でのフットワークは常軌を逸しており、オラジュワンが繰り出すフェイクとスピンムーブは「ドリームシェイク」とも言われ、他チームからは驚異となっていました。

    ディフェンスにおいてもリバウド数は歴代13位、ブロック数は歴代1位、スティ―ルにおいてもセンターにも関わらず歴代10位に位置しています。

    一時代のトッププレイヤーとして名前を残してもおかしくないようなスタッツとインパクトを残していますが同時期にはあの男がいたため、トッププレイヤーにはなれませんでした。

    本日は必殺の「ドリームシェイク」を武器に1980年代から1990年にかけて最強のセンターと呼ばれたアキーム・オラジュワンを見ていきましょう。

    【テーマ】

    華麗なるドリームシェイクで最強を手にした男~アキーム・オラジュワン~


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    目次
    1. 必殺技『ドリームシェイク

    2. 受賞歴

    3. 連覇

    4. オラジュワン道場

    5. 
    まとめ



    1. 必殺技『ドリームシェイク


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    1980年代から1990年代にかけては歴代でも屈指のセンターが数多くいました。

    ・カリーム・アブドゥルジャバー
    ・パトリック・ユーイング
    ・デイビッド・ロビンソン
    ・シャキール・オニール
    等いましたが、


    カリームから最強のセンターの座を受け継いだのはアキーム・オラジュワンです。

    センターでありながらガード並みのボールハンドリングやフットワークを持っていました。

    そこに、フェイクも加えることにより、必殺技『ドリームシェイク』の完成です。

    更にシュートバリエーションも多彩でしたのでどうしようもありません。


    高さやパワーが主戦場のセンターというポジションで、『ドリームシェイク』を武器に暴れまくり、ロケッツの2連覇に貢献しました。

    スパーズのデイビッド・ロビンソンは歴代でも屈指のセンターでしたが、「彼のスピンムーブを止められる選手はいない」と言わしめるほどです。

    ちなみに。。。

    1990年のバックス戦に史上4人しか達成していないクアドルプルダブルを達成しました。

    18得点10アシスト16リバウンド1スティール11ブロック

    ※クアドルプル・ダブルとは・・・得点、リバウンド、アシスト、スティール、ブロックショットの5つのうち4つの項目において2桁数を記録すること

    ※1974年以前にはスティールとブロックショットは公式には記録されていなかったため、1973年以前にも達成者がいたと予想されます。
    (ウィルト・チェンバレン、ビル・ラッセル、オスカー・ロバートソン等)



    2. 受賞歴


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    殿堂入り: 2008

    永久欠番: ロケッツ#34

    2×NBAチャンピオン : 1994-1995

    2×NBAファイナルMVP : 1994-1995

    MVP : 1994

    12×NBAオールスターゲーム出場 : 1985-1990, 1992-1997

    オールNBAチーム
     6×1stチーム : 1987~1989, 1993-1994, 1997
     3×2ndチーム : 1986, 1990, 1996
     3×3rdチーム : 1991, 1995, 1999

    2×NBA最優秀守備選手賞 : 1993-1994

    NBAオールディフェンシブチーム
     5×1stチーム : 1987-1988, 1990, 1993-1994
     4×2ndチーム : 1982, 1991, 1996-1997

    NBAオールルーキーチーム 1stチーム : 1985

    2×リバウンド王 : 1989-1990

    3×ブロック王 : 1990-1991, 1993

    〇基本情報

    身長: 213㎝

    体重: 115㎏

    所属チーム: ロケッツ:1984-2001 ラプターズ2001-2002
         
    ポジション: センター

    出身: ナイジェリア(ラゴス州ラゴス)

    ドラフト: 1984年 1位



    3. 2連覇


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    〇マイケル・ジョーダン 6×NBAチャンピオン

    1991-1993 1996-1998


    ジョーダンが達成した2度の3連覇は有名ですが、MLBに挑戦していた2年間はオラジュワン擁するロケッツが2連覇を達成します。

    全盛期だったジョーダンの突然の引退はアメリカのみならず全世界に衝撃を与えました。

    しかし、ジョーダンという絶対的ヒーローの影にいた2番目のヒーロー達にとってはナンバー1になるためのチャンスでもありました。

    結果、オラジュワンがナンバー1になるのですが、ジョーダンがNBAに復帰して3連覇を達成したため、オラジュワンの2連覇は影を潜めます。


    ※オラジュワンは1984年のドラフト1位でしたが、3位にマイケル・ジョーダンがいたため、誰にも恥じないスタッツを残しても、ジョーダンと比べられ、叩かれることもあり精神的にも落ち込んだ時期もありました。


    〇1993-1994

    全盛期を迎えていたオラジュワンはこのシーズンMVPを獲得し、ファイナルに進出します。

    相手はパトリック・ユーイング擁するニックス。

    ※ユーイングとは大学の決勝で負けた時以来の因縁の対決として注目を浴びました。

    ニックスはオラジュワンを止めるためにユーイングだけでなく数々の選手を当てスタミナを削る作戦が功を奏し、第7戦までもつれる展開になりましたが、最後はオラジュワンが決めます。

    オラジュワンはロケッツを悲願の初優勝に導きました。


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    〇1994-1995

    連覇を目指し、大学時代のチームメイト、クライド・ドレクスラーを加えたロケッツは、昨シーズンより勝ち星は伸ばせませんでしたが、ファイナルに進出します。

    ファイナルでは、若き日のシャック擁するマジック。「シャック・アタックvsドリーム・シェイク」で話題を集め、下馬評ではマジック有利と言われていましたが、

    オラジュワンがシャックを圧倒し、スイープ(4連勝)でマジックを下しました。

    ロケッツは2連覇を達成し、オラジュワンはNBAの顔になります。

    ロケッツの優勝は後にも先にもこの2連覇のみなので、ヒューストンにとってオラジュワンは英雄となっています。


    「シャック・アタックvsドリーム・シェイク」で話題を集めたファイナルの様子をご覧ください。



    4. オラジュワン道場


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    オラジュワンは現役引退後、スキルトレーナーとしても活躍しています。

    コービーがポストでの支配力を高めたいとオラジュワンにコーチの依頼をしたことがきっかけでした。

    コービーは現役選手として全盛期のオラジュワンを見ているのでより高みを目指すために『ドリームシェイク』の極意を知りたかったと思われます。

    コービーが認める『ドリームシェイク』はやはりすごかったと分かるエピソードでもあります。
    ※コービーは1996年からコートに立っているので全盛期のオラジュワンを見ています。


    その後、コービーがポストプレーでも活躍すると、オラジュワン道場の門を叩く選手が現れます。

    ・レブロン・ジェームス
    ・ドワイト・ハワード
    ・アマーレ・スタウダマイヤー
    ・カーメロ・アンソニー
    ・ジャベール・マギー
    等の選手を指導したそうです。


    今後も数多くの選手が門を叩くことになるでしょう。


    5. まとめ


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    ゴール下でのフットワークは常軌を逸しており、オラジュワンが繰り出すフェイクとスピンムーブは「ドリームシェイク」とも言われ、他チームからは驚異となっていました。

    一時代のトッププレイヤーとして名前を残してもおかしくないようなスタッツ、インパクトを残していますが同時期にはマイケル・ジョーダンがいたため、本当の意味でのトッププレイヤーにはなれませんでした。

    ジョーダンの陰に潜んでしまった選手の代表、アキーム・オラジュワン。

    歴代最高のセンターは?という問いに、ウィルト・チェンバレン、ビル・ラッセル、カリーム・アブドゥルジャバー、シャキール・オニール等の名前が上がるでしょう。

    しかし、オラジュワンの存在も忘れてはなりません。


    私は歴代最高のセンターがアキーム・オラジュワンだとは思いませんが、その議論に名前が上がる選手だと思います。


    マイケル・ジョーダンという光の一番の被害者アキーム・オラジュワン。

    アキーム・オラジュワンを知らなかった方はぜひ抑えておいて下さい。損はしません。


    最後にもう一度オラジュワンのプレイをご覧ください。


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    2020年1月1日NBA前コミッショナーのデビッド・スターン氏が亡くなりました。

    第3代NBAコミッショナーに就任したデビッド・スターンは1984年から2014年まで務め、NBAだけでなくアメリカスポーツリーグの歴史において最も長い間貢献します。

    1970年のどん底の状態から、麻薬問題、マジック・ジョンソンHIV感染の難局を乗り越え、1992年のドリームチームが先駆けとなって世界的に有名になったNBA。

    独裁的な手腕で批判されることもありましたが、現在のNBAの礎を作ったのは間違いなくこの男です。

    本日は、NBA最大の功労者と言われているデビッド・スターンを見ていきましょう。


    【テーマ】

    NBAの礎を築いた最大の功労者~デビッド・スターン~


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    目次
    1. ドラッグ問題

    2. マジック・ジョンソンのHIV

    3. ドリームチーム

    4. その他の功績

    5. 
    まとめ



    1. ドラック問題


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    1970年代、NBAの現状

    ・ベトナム戦争の敗北でアメリカじたいが疲弊
    ・薬物などの蔓延
    ・チームの半分以上が赤字で、経営破綻寸前のクラブも存在
    ・ABA(アメリカン・バスケットボール・アソシエーション)との競争

    ※1970年代アメリカには2つのバスケットボールリーグが存在しました。

    という理由から、1970年代NBAの人気は地に落ちていました。

    1984年NBAコミッショナーに就任したデビッド・スターンは取り組むべき大きな課題は2つありました。

    ・薬物使用をリーグから排除
    ・マーケティングの再建


    〇薬物使用をリーグから排除

    選手の薬物使用に対してスターンは排除という選択肢がありながらも、治療を支援する方針を選択します。

    どのくらいの選手が取り組んだのかは分かりませんが、改善されない場合NBAを追放という条件もあったので選手は治療を受けたそうです。

    それでも治療を受けない選手がいたらしいのですが、そのような選手は容赦なく追放しました。


    〇マーケティングの再建

    5人いたマーケティングを50人に増やし、
    マクドナルド、AT&T、ゲータレード、アメリカン航空等の大企業とスポンサー契約を成功させます。



    2. マジック・ジョンソンのHIV


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    マジック・ジョンソンのHIV感染と引退

    レイカーズの象徴で歴代最高のPG~マジック・ジョンソン~

    当時は世間にHIVの認識が広まっておらず、スターンでさえマジックがHIV感染を知った時「マジックは亡くなる」と思ったらしいです。

    スターンはまずアメリカでもトップクラスのHIV学者を雇い、HIVについて学びました。

    引退したのにも関わらず1992年のオールスターに選ばれたマジックですが、各チームの運営陣がマジックからのHIV感染を恐れ、マジックの出場に反対します。

    すると、スターンは全チームに学者を送り、チーム関係者にHIVの教育を徹底させます。

    そして、HIVについて学んだことでマジックは堂々とオールスターに出場し、MVPを獲得します。

    この一連の動きはアメリカ全土だけでなく世界中に衝撃を与えます。

    HIVの認識に偏見がありましたが、マジックの勇気とスターンの手腕で世界のHIV感染者に勇気と希望を与えました。



    3. ドリームチーム


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    1980年代、マジック・ジョンソンとラリー・バードの活躍でNBAに活気が出始め、マイケル・ジョーダンの出現とケーブルテレビの普及でNBA人気は一気に加速していきます。

    1980年代後半は国際映像が普及し始め、日本のNHKも不定期ですがNBAの試合放送を始めました。

    アメリカ国内においてもそれまでハイライト番組や選手紹介する番組がなかったのですが、その専用番組を制作し、ジョーダンのハイライト番組は人気番組になります。


    そして、1992年のバルセロナオリンピックがNBAにとって大きな転機になります。

    1992年のバルセロナオリンピックからプロ選手の出場が認められます。

    スターンは怪我のリスク等からオリンピックの出場を渋っていましたが、オリンピックという舞台でNBA選手を全世界の人に見てもらえるマーケットとして最高の場所だと考えを改めていきました。


    もちろん大成功をおさめ、海外事業展開を本格化させます。

    1990年10人だった国際部は94年には45人増え、アメリカ以外にもメキシコ、イギリス、フランス、スペイン、日本、香港、シンガポール、オーストラリアと世界の主要地域に事務所を設置します。

    〇結果

    外国籍選手は1991年18か国23選手でしたが、2018年には42か国108選手まで増えます。

    1993年118か国で放送されていましたが、2019年には215か国で放送されるようになりました。


    日本でのNBA人気が上がった要因として、スターンのおかげと言っていいでしょう。


    4. その他の功績


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    スターンの大きな功績を3つ上げましたが他にもあります。

    〇カナダにNBAチームを設立

    1995年トロント・ラプターズ、バンクーバー・グリズリーズ(後にメンフィスに移転)

    これを機にカナダでもNBAは人気スポーツになっていきます。


    〇WNBAの発足

    WNBA(女子プロバスケットボールリーグ)、世界の多くのオフシーズンにあたる時期に開催されるので、アメリカ国外の選手が多くプレイしています。


    〇オールスターウィークエンド

    オールスター開催のみでしたが、3Pコンテストやダンクコンテストを導入し、長期間ファンに楽しんでもらうために設定しました(後に、スキルズチャレンジ、ライジングスターズも導入)


    〇Gリーグ

    将来有能な選手に対して、NBAの登竜門の設置することにより、Gリーグからもスター選手が現れるようになります(ルディ・ゴベア、パスカル・シアカム、クリス・ミドルトン等オールスター選手もいます)


    〇サラリーキャップ、ドラフトロッタリーの導入
    サラリーキャップについて~シンプルかつ簡単に~
    ドラフト制度及び過去10年のドラフト1位選手

    〇ジャパンゲーム

    1990年11月。NBAは初めてアメリカ以外の国で公式戦を行いました。その国はなんと日本です。それを機に、92年、94年、96年、99年、2003年と続き、昨年10月に約16年ぶりとなるジャパンゲームズ(昨年のみプレシーズン)が行われました。


    〇スターンは独裁的手腕を発揮することがあったので、度々批判を受けます。

    ・ドレスコードの導入
    ・クリス・ポールのレイカーズ移籍を差し止め
    ・シアトル・スーパーソニックスの拠点移し
    ・ロックアウト時に選手を奴隷のような扱いまがりな発言
    ・数々の八百長問題
    ・85年ドラフトロッタリー疑惑



    5. まとめ


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    第3代NBAコミッショナーに就任したデビッド・スターンは1984年から2014年まで務め、NBAだけでなくアメリカスポーツリーグの歴史において最も長い間貢献します。

    1970年代低迷期だったNBAを救い、一気に世界最高峰のリーグにまで押し上げた功績は誰にもまねできません。

    マイケル・ジョーダンの声明文です。

    「デイビッド・スターンがいなければ、現在のNBAはなかったかもしれません。彼は慌ただしい時の中でリーグをリードし、国際的なリーグへと成長させ、これまで限りなく少数だと思われていた機会を生み出しました。彼のビジョンとリーダーシップが、私を国際的な舞台へと押し上げ、成功へと導いてくれました。デイビッドにはバスケットボールというゲームに対する深い愛情があり、彼がいなければ今の私はなかったかもしれません」


    時には独裁的と言われるやり方で批判を受けましたが、それくらいの覚悟と度胸がなければ、NBAを変えることはできなかったでしょう。

    デイビッド・スターンの功績がもう1つあります。


    それは、現NBAコミッショナーをアダム・シルバーに託したことです。

    そして、アダム・シルバーはNBAコミッショナーになって以来の危機に瀕しています。

    シルバーにとっても最大の助言者を失った後に最大の危機を迎えたことは不運としか言えませんが、スターンがシルバーに託した本当の理由が分かる時でもあります。

    シルバーには亡きスターンに任せとけと言わんばかりの活躍を期待します。


    最後に。。。

    現在NBAを好きになったきっかけを与えてくれたデビット・スターン。
    ありがとうございました。

    安らかにお眠りください。


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    NBAロゴのシルエットのモデルになったと言われているジェリー・ウェスト。

    現役時代には『ミスター・クラッチ』の愛称で呼ばれ試合の土壇場に強かったが、ビル・ラッセル擁するセルティックスが立ちふさがり、9回ファイナルに進出しましたが、優勝はわずか1回でした。

    引退後はレイカーズの指導者を経てフロントに入り、1980年代、2000年代のレイカーズ黄金期を呼び寄せ、最近では最強ウォリアーズの土台を作り上げ、現在ではクリッパーズの最高顧問として手腕を発揮しています。

    本日は、現役でも引退後も大活躍しているジェリー・ウェストを見ていきましょう。


    【テーマ】

    NBAのロゴの人~ジェリー・ウエスト~


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    目次
    1. NBAのロゴ

    2. 受賞歴

    3. 不運のミスター・クラッチ

    4. 引退後の活躍

    5. 
    まとめ


    1. NBAのロゴ

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    1969年、当時のウォルター・ケネディNBAコミッショナーはロゴがなかったため、ロゴマークの作成依頼をしました。

    依頼を受けたアラン・シーゲル氏は1960年代に活躍した選手の中からシルエットを選んだ際、ドリブルをしているジェリー・ウェストに惹かれ採用されたと言われています。

    〇ロゴデザインについてウェストが思う事
    ウェストは現在、ロゴのシルエットデザインを「史上最も偉大な選手に変更することを考える時期かもしれない」と語りました。

    その際記者は「誰を選ぶ?」という問いかけに対して、

    「レイカーズ以外の選手を言いたくないが、マイケル・ジョーダン」と語りました。

    今年、コービー・ブライアントが飛行機事故で亡くまりました。

    コービーを永遠不滅のものとするため、新たなロゴのシルエットに署名運動が起きます。

    すると、200万人以上の署名が集まりました。

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    NBAのロゴがジェリー・ウェストがモデルになっていることは先ほども言いましたが、NBAがその事を認めたことはありません。

    〇理由
    ・肖像権
    ・候補者がたくさんいる

    〇肖像権
    ウェストが肖像権で利益を得ようとしたことはありませんが、ロゴが誰かに変わったらその人物が利益を得ようとするかもしれません。

    ※ロゴのモデルになるような選手がそんなことで訴えるとは想像しずらいのですが。。。

    〇候補者がたくさんいる
    偉大な選手がロゴのモデルになることは皆納得するでしょう。

    しかし、偉大な選手が多すぎて特定の人物に絞るのは難しいと思います。

    以上の2点からコービーでもジョーダンでも難しい理由です。

    もし、仮に。。。
    それでもロゴのモチーフの選手を変えるとしたら、シーズンMVPの選手というのが現実的だと思いますが、皆さんはどう思いますか?


    2. 受賞歴

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    殿堂入り: 1980

    永久欠番: レイカーズ#44

    NBAチャンピオン: 1972

    NBAファイナルMVP : 1969

    14× NBAオールスターゲーム出場 : 1961–1974

    NBAオールスターゲームMVP : 1972

    オールNBAチーム
     10×1stチーム : 1962–1967, 1970–1973
     2×2ndチーム : 1968, 1969

    NBAオールディフェンシブチーム
     4×1stチーム : 1970–1973
     2ndチーム : 1969

    得点王 : 1970

    アシスト王 : 1972

    Executive of the Year: 1995,2004
    (最も成功した選手人事を行った人物に与えられる賞 )

    〇基本情報

    身長: 188㎝

    体重: 79㎏

    所属チーム: レイカーズ1960-74
         
    ポジション: ポイントガード、シューティングガード

    出身: アメリカ(ウェストバージニア州チェリアン)

    ドラフト: 1960年 2位



    3. 不運のミスター・クラッチ


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    ウェストは現役生活14年間レイカーズ一筋でプレイします。

    その内、9度ファイナルに進出します。

    しかし、ファイナルに進出する度にビル・ラッセル擁する最強セルティックスが立ちはだかります。

    ビル・ラッセルの功績

    〇ウェストのファイナルの成績です。

    1962:セルティックス 敗退
    1963:セルティックス 敗退
    1965:セルティックス 敗退
    1966:セルティックス 敗退
    1968:セルティックス 敗退
    1969:セルティックス 敗退
    1970:ニックス 敗退
    1972:ニックス 優勝
    1973:ニックス 敗退

    結局、優勝したのは1971-72シーズンのみです。


    1979年からファイナルMVPが設けられました。

    噂ですが。。。ウェストが6度もファイナルで活躍したのにもかかわらず、1度も優勝できずにいたウェストのために作られた賞とも言われています。

    ※1969年ファイナル最終戦:42得点12アシスト12リバウンド


    なので、

    ウェストはファイナル敗退チームから受賞した唯一の選手になりました。



    4. 引退後の活躍


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    ウェストの活躍は引退後もNBA界に大きく貢献します。

    引退後のウェストは、レイカーズのHCを経てレイカーズのフロントに入りました。

    それからは、グリズリーズ、ウォリアーズ、現在はクリッパーズの最高顧問を務めています。

    それぞれの4チームでの功績を見ていきましょう。

    〇レイカーズ

    1979年からレイカーズのフロント入りすると、1981年から選手人事に関わる仕事に就き、レイカーズの黄金時代を支えました。

    1990年代に入るとカリーム、マジックが引退すると低迷期に入りますが、持ち前の目利きで選手を獲得し持ち直します。

    1996年にはコービー、シャックを獲得し、3連覇へと繋がります。


    〇グリズリーズ

    2002年バスケットボール部門社長として契約すると、ブラウンHCを招き、改革へ乗り出します。そのシーズン過去最高の28勝、翌シーズンには50勝と大躍進を果たします。

    こうして、ウェストはグリズリーズの基盤を作り上げました。


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    〇ウォリアーズ

    2011年にウォリアーズのフロント入りします。人事権は持っていなかったもののアドバイザーとしてウォリアーズ黄金期へと変貌させるのに貢献しました。

    ケビン・デュラント獲得にも関わり、2014年にはクレイ・トンプソンとケビン・ラブのトレード話もトンプソンを放出しないようチームに強く意見したと言われています。


    〇クリッパーズ

    2017年から最高顧問としてクリッパーズ入りをします。

    フロント入り早々クリス・ポール、ブレイク・グリフィンを放出し、翌シーズンにはディアンドレ・ジョーダンを放出します。

    2019年にはカワイ・レナードとポール・ジョージを獲得し、クリッパーズ創設以来最高のチームが誕生しました。


    レイカーズ、グリズリーズ在籍時には、

    Executive of the Year(最も成功した選手人事を行った人物に与えられる賞 )

    を受賞しています。

    5. まとめ


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    NBAロゴのシルエットのモデルになったと言われているジェリー・ウェスト。

    現役時代には『ミスター・クラッチ』の愛称で呼ばれ試合の土壇場に強かったが、ビル・ラッセル擁するセルティックスが立ちふさがり、9回ファイナルに進出しましたが、優勝はわずか1回でした。

    現役時代はわずか1回のみとなってしまったNBAチャンピオン。

    しかし、レイカーズのフロント入りして人事を携わるようになってから9回優勝してきました(レイカーズ7回、ウォリアーズ2回)


    現在クリッパーズの最高顧問としてフランチャイズ史上最高のチームを作り上げ、10回目の優勝を目指しまています。

    クリッパーズは創設50年目になりますが優勝は1度もありません。

    今シーズンは優勝の最右翼としてスタートして現在2位ですが、実力を発揮していない感じがあります。

    プレイオフにめっぽう強いカワイ・レナードが昨シーズンのようなパフォーマンスを発揮できれば、間違いなく優勝の最右翼となるでしょう。


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    話がそれましたが。。。

    NBAロゴのシルエットモチーフの件で「レイカーズ以外の選手を言いたくないが、マイケル・ジョーダン」と語りました。

    レイカーズ愛をアピールしていますが、

    レイカーズを離れて約20年グリズリーズ、ウォリアーズ、クリッパーズとレイカーズに復帰することなく、他のチームで活躍しています。

    しかし、3チームともウェスタンカンファレンスです。クリッパーズに限っては同じロサンゼルスです。

    ウェストはレイカーズの最強ライバルチームを作ろうとしているのだと私は思いました。

    誰よりもファイナルに進出し、誰よりも敗退したウェストは、敗北の大切さ、そこから学ぶことの多さを知った選手でもあります。


    レイカーズのレジェンドは、レイカーズの発展のために他チームに渡り、レイカーズを苦しめレイカーズを強くしています。

    現役時代誰よりも悔しい思いをしたジェリー・ウェスト、今後もレイカーズのために誰よりも厳しく愛情を注ぐことでしょう。


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    1980年代NBAの象徴で歴代最高のポイントガード(PG)のマジック・ジョンソン。

    マジックはルーキーシーズンからNBAチャンピオンになりファイナルMVPも獲得しました。

    マジックが在籍した1980年代のレイカーズは5回優勝し、「ショータイムレイカーズ」と呼ばれ、ファンを魅了します。

    しかし、マジックは1991年にHIVに感染し突然の引退を迎えました。

    本日は1980年代NBAの象徴として活躍した歴代最高PGのマジック・ジョンソンを見ていきましょう。


    【テーマ】

    レイカーズの象徴で歴代最高のPG~マジック・ジョンソン~


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    目次
    1. ノールックパス

    2. 受賞歴

    3. 歴代最高のPG

    4. HIV

    5. 名言と格言

    6. 
    まとめ



    1. ノールックパス


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    マジック・ジョンソンの代名詞とも言える「ノールックパス」

    ノールックパスとは、敵を欺くパスですがマジックのパスはその領域を脱していました。

    テレビカメラマンを欺き、時には味方までも欺いていたのです。

    レイカーズ入団当初、「ノールックパス」が浸透していない中、マジックは練習中にノールックパスをバンバン供給すると、チームメイトはあまりにも突然くるパスに困惑し、マジックにクレームを言う選手もいたそうです。


    ※ちなみにマジック・ジョンソンというのは本名ではありません。本名はアーヴィン・ジョンソンですが、高校1年の時に地元新聞社がマジックのようなプレイスタイルと圧倒的なスタッツから「マジック・ジョンソン」と名付けられました。


    マジックのチームメイトをも欺くパスは他の選手が見せるパスとは格段に違い、パスを出す前のフェイクを含め世界に衝撃を与えます。

    当時のNBAはパスで魅せるというプレイスタイルはほぼ皆無でしたので、マジックのプレイはアシストが評価されるきっかけにもなりました。



    2. 受賞歴


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    殿堂入り: 2002

    永久欠番: レイカーズ#32

    5×NBAチャンピオン: 1980, 1982, 1985, 1987, 1988

    3×NBAファイナルMVP: 1980, 1982, 1987

    3×MVP:  1987, 1989, 1990

    12×NBAオールスターゲーム出場: 1980, 1982-1992

    2×NBAオールスターゲームMVP: 1990, 1992

    オールNBAチーム
     9×1stチーム: 1983-1991
     2ndチーム: 1982

    NBAオールルーキーチーム 1stチーム: 1980

    4×アシスト王: 1983, 1984, 1986, 1987

    2×スティール王: 1981, 1982

    〇基本情報

    本名: アーヴィン・ジョンソン

    身長: 206㎝

    体重: 105㎏

    所属チーム: レイカーズ1979-1991,1996
         
    ポジション: ポイントガード

    出身: アメリカ(ミシガン州ランシング)

    ドラフト: 1979年 1位



    3. 歴代最高のPG


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    マジックは歴代最高のPGと言われています。

    〇理由

    ・ノールックパス
    ・ショータイムレイカーズ
    ・大型のPGでオールラウンダー
    ・圧倒的実績

    以上4点です。

    〇ノールックパス
    ノールックパスは上記で言った通りです。

    〇ショータイムレイカーズ

    「ショータイムレイカーズ」とは1980年代レイカーズの象徴でもあります。

    速攻からマジックの変幻自在のパスを受け取った選手が決める。

    シンプルなオフェンスパターンですが戻りながらのディフェンスでノールックパスを防ぐ術はなく、レイカーズの必勝パターンとなりました。


    〇大型のPGでオールラウンダー

    当時のアメリカで206㎝といったらフォワードやセンターを任される傾向にありましたが、高校のコーチがPGに適していることを見抜き、PGとしてプレイすることが多くなります。

    レイカーズに入団しても、インサイドにはカリーム・アブドゥルジャバーという絶対的なインサイドプレイヤーの存在がマジックをPGとして起用する決定打にもなりました。

    高校の時からポイントガード、フォワード、センターを任されてきたのでレイカーズに入団する頃には生粋のオールラウンダー選手となっていました。

    ルーキーシーズンのファイナル第5戦で絶対的大黒柱のカリームが怪我を負うとマジックは第6戦センターとしてプレイして優勝に導きます。

    一度引退して5年後の1995-96シーズンにパワーフォワードとして復帰しました。


    〇圧倒的実績

    上記の受賞歴を見ても分かる通り、PGとして歴代選手の中では圧倒的です。現役選手でもステフィン・カリーやラッセル・ウェストブルック等いますが、マジック以上のインパクトと実績を抜くのは難しいでしょう。


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    〇余談ですが。。。

    バルセロナオリンピック、ドリームチームの一員として出場しました。

    ※オリンピック史上始めてプロ参加が了承された大会でもあります。

    なので、大物現役選手はオリンピックの出場をあまりよく思っていませんでした。

    USAバスケットボールは昨年引退したマジックに話を持ち掛け、マジックが了承すると、

    引退を考えていたラリー・バード
    NBAの顔となったマイケル・ジョーダン

    の両者を説得し、ジョーダン、バード、マジックの新旧のNBAの顔が揃い、ドリームチームの結成に繋がりました。



    4. HIV


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    1991年11月7日マジックは会見を開き、自らのHIV感染と現役引退を発表しました。

    この記者会見は全米のみならず世界中に報道され、HIVに関して大衆の意識が低かったのでマジックの感染はHIVに対しての関心を一気に高めました。

    「ジョン・F・ケネディ大統領暗殺に匹敵する」と表現されるほど全米に大きなインパクトを与えます。


    当時、HIVは「同性愛者による性行為」「薬物依存者が注射器の回し打ちで」感染するものだというイメージが強かったのですが、マジックが異性とのコンドームなしのセックスでHIVに感染したと明かしたことで、感染者に対する偏見が少しずつ変わるようになりました。


    引退後、92年にはオリンピックに出場し、96年には1度現役復帰をも果たしています。

    マジックの行動はHIV感染者でも普通の生活が送れるアピールにもなり、世間のイメージを大きく変えていくきっかけになります。


    マジックは現在もHIV問題を扱う委員会や啓蒙活動に努めています。


    5. 名言と格言


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    ・HIV感染で止むを得ず引退したマジックならではの言葉

    人生に勝つこともあれば負けることもある。僕にとって一番許せないのは、やめてしまう事だ。


    ・努力を惜しまず練習してきたマジックならではの言葉

    ・才能だけでは十分ではない。例外もいるけどベストのプレイヤー達は努力の量が違うんだ。

    ・良い選手は最初にコートに来て最後にコートを去るものだ。


    ・幼少期、人種差別を受けていたマジックがこども達に残した言葉

    ・全てのこどもに必要なものは救済と希望と彼らを信じてあげることができる人。

    ・僕は貧乏な子供だったけど、貧相な夢は持っていなかった。

    ・あなたが本当にピンチになった時、本当の友達が誰かが分かる。

    ・君はマジックジョンソンになる必要も特別な存在になる必要もない。君は全てにおいて特別な存在だよ。君は君だ。


    ・とある黒人の少年に送った言葉

    「君には無理だ」と言う人の話を聞いてはいけない。
    もし自分で何かを成し遂げたかったら、
    出来ないことを他人のせいにしないで自分のせいにしなさい。
    周りは君に成功してほしくないんだ。
    なぜなら周りは途中で諦めてしまったから…。
    だから君にもその夢を諦めてほしいんだ。
    不幸な人は他人の不幸を願うものなんだ。
    決して諦めてはダメだ。
    自分の周りをエネルギーで溢れ、しっかりとした考えを持っている人で固めなさい。
    自分の周りを野心で溢れ、プラス思考の人で固めなさい。
    憧れる、魅力ある人がいたらアドバイスをもらいなさい。
    君の人生を考える事ができるのは君だけなんだ。
    君の夢が何であれ、その夢にただひたすら向かっていくんだ。
    なぜなら、君は幸せになるために生まれてきたのだから。



    6. まとめ


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    歴代最高のポイントガードのマジックは1980年代のレイカーズを5回の優勝に導き「ショータイムレイカーズ」と呼ばれ、ファンを魅了します。

    1980年代NBAの顔としてライバルの「ラリー・バード」と共に先頭を走り続けました。

    伝説と言われた白人選手~ラリー・バード~

    しかし、HIV感染の発覚で引退を余儀なくされますが、
    大衆が正しい知識を当時持っていればマジックが引退する必要はなかったでしょう。

    正しい知識を持たないというのはとても恐ろしいと実感できる出来事でもありました。


    感染してから約30年。

    「今でもあの記者会見のことを、しっかり覚えているよ。みんなが、チームメイトが、ファンも応援してくれて。今でもこれからもみんなに感謝している」とコメントしたマジック。

    マジックはあの会見の日から今日まで、今日からHIVがこの世から消える日まで、感染者の希望であり勇気でもあり続けます。


    歴代最高のPGとして、ビジネスマンとして、何よりHIV感染者の希望として、今後も末永く活躍してほしいと思います。



    歴代最高のPGのプレイをご覧下さい


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    1980年代のNBAは2人の男の歴史と言えます。

    1人はロサンゼルス・レイカーズに所属し華やかでエンターテイメント性に富むプレーでバスケットファンを魅了した「マジック・ジョンソン」

    1人はボストン・セルティックスに所属し正確な技術と頭脳的プレーでセルティックスをけん引した「ラリー・バード」

    1970年代後半、NBAの人気は地に落ちていましたが、1980年代は2人によってリーグは活性化していきます。

    本日は1980年代の立役者の1人で現役の時から伝説と呼ばれていた、ラリー・バードを見ていきましょう。


    【テーマ】

    伝説と言われた白人選手~ラリー・バード~


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    目次
    1. マジック・ジョンソン

    2. 受賞歴

    3. プレイスタイル

    4. トラッシュトークと名言

    5. 
    まとめ



    1. マジック・ジョンソン


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    1970年代後半NBAの人気は地に落ちていました。

    〇理由

    ・ベトナム戦争の敗北でアメリカじたいが疲弊していた
    ・NBA内の薬物の蔓延
    ・ABA(アメリカン・バスケットボール・アソシエーション)との競争

    ※1970年代アメリカには2つのバスケットボールリーグが存在しました。


    そこに、2人の選手が登場します。

    【マジック・ジョンソン】

    ロサンゼルス・レイカーズ
    1979年ドラフト1位
    華やか、エンターテイメント性に富むプレー
    笑顔を絶やさない、大都会のイメージ
    黒人
    ルーキーシーズン:1980年NBAチャンピオン、NBAファイナルMVP


    【ラリー・バード】

    ボストン・セルティックス
    1978年ドラフト6位
    正確な技術と頭脳的なプレー
    言葉少なめで、田舎者なイメージ
    白人
    ルーキーシーズン:1980年新人王、オールNBA1stチーム


    ※野球界に例えると

    マジック・ジョンソン・・・長嶋茂雄、王貞治氏
    ラリーバード・・・野村克也氏

    みたいなライバル関係でした。


    レイカーズとセルティックス、東西の強豪チームに1980年からプレイを始めたマジックとバード。

    マスコミは2人を煽り、NBAは活性化し始めます。

    東のセルティックス、西のレイカーズはファイナルまで何度も勝ち上がりました。

    1980年から1988年までの9年間、1シーズンを除いてはレイカーズかセルティックスが優勝しています。

    ※優勝回数:レイカーズ5回(1980,1982,1985,1987,1988) セルティックス3回(1981,1984,1986)


    1980年代の終わりにバッドボーイズの時代を経て、1990年代のマイケル・ジョーダン時代に移っていきます。



    2. 受賞歴


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    殿堂入り: 1998

    永久欠番: セルティックス#33

    3×NBAチャンピオン:1981, 1984, 1986

    3×MVP:1984-1986

    2×NBAファイナルMVP:1984, 1986

    新人王:1980

    12×NBAオールスターゲーム出場:1980-1987, 1989-1992

    オールNBAチーム
     9×1stチーム:1980-1988 
     2ndチーム:1990

    NBAオールディフェンシブチーム
     3×2nd:1982-1984

    NBAでは「いい選手はいい監督になれない」と言われていましたが、バードはMVPと最優秀監督賞を受賞します。


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    〇基本情報

    愛称: 伝説(レジェンド)

    身長: 206㎝

    体重: 100㎏

    所属チーム: セルティックス1978-1992
         
    ポジション: スモールフォワード

    出身: アメリカ(インディアナ州ウエストバーデン)

    ドラフト: 1978年 6位



    3. プレイスタイル


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    NBA選手は身体能力がずば抜けているというイメージがありますが、バードの身体能力は平均以下でした。

    ※身長206㎝でしたが、助走をして何とかダンクができる程度だったそうです。


    しかし、正確な技術で頭脳的プレーができる選手でした。

    特に、中距離、長距離のシュートの技術に長けていて、

    1979年から取り入れた3Pシュートの第一人者とも言われています。


    一流のシューターの証「50-40-90」を達成した最初の選手にもなります。

    ※「50-40-90」達成した選手

    ・ラリー・バード(1986-87、1987-88)
    ・マーク・プライス(1988-89)
    ・レジー・ミラー(1993-94)
    ・スティーブ・ナッシュ(2005-06、2007-08、2008-09、2009-10)
    ・ダーク・ノヴィツキー(2006-2007)
    ・ケビン・デュラント(2012-13)
    ・ステフィン・カリー(2015-16)
    ・マルコム・ブログドン(2018-19)


    ※「50-40-90」とは

    1シーズンにおいて、「フィールドゴール50%」「3Pシュート40%」「フリースロー90%」を「フィールドゴール300本」「3Pシュート82本」「フリースロ125本」以上成功させることです。


    1970年代までのNBAは、ビル・ラッセル、ウィルト・チェンバレン、カリーム・アブドゥルジャバーのようなセンタープレイヤーがNBAを支配していましたが、マジック・ジョンソン、ラリー・バードの出現によりガードやフォワードの選手でもNBAを支配できると証明した年代でもあります。



    4. トラッシュトーク


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    バードはトラッシュトークでも有名でした。

    今回は一部のトラッシュトークを紹介します。

    バードはオールスターの3Pシュートコンテストに3年連続出場して3年連続優勝しています。

    そして、3年とも明言を残しています。

    1986年
    「誰が2番になるか考えているんだ」

    1987年
    「君たちは準優勝するためにここに来た。優勝するのは俺だから」

    1988年
    「今回は何も言わない。誰が優勝するか知っているから」


    1984年シクサーズ戦

    不調だったジュリアス・アービングに対して自分が得点する度に自分の得点とアービングの得点を言い続けアービングを激怒させ乱闘が起きました。


    クリスマスのペイサーズ戦

    試合前、チャック・パーソンに「君にクリスマスプレゼントがあるんだ」と言い、試合中ベンチに下がっていたパーソンの前で3Pシュートを放ち、「メリーFxxkingクリスマス」と言って、ボールはゴールに吸い込まれました。


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    〇明言

    ・1985-86シーズン、カンファレンス1回戦第2試合セルティックスvsブルズに
    伝説の名言が飛び出します。

    この試合、NBAキャリア2年目を迎えていたマイケル・ジョーダンは爆発します。

    63得点6アシスト5リバウンド3スティール2ブロックを記録します。


    そんなジョーダンに対してバードは

    「彼はマイケル・ジョーダンの姿をした神だ」

    と言い残しています。

    実は翻訳ミスで実際は

    “God came to the game tonight and played under the name of Michael Jordan”
    「今夜、神様が試合に来て、マイケル・ジョーダンという名前で遊んでいった」

    私はこちらの方がおしゃれで好きです。


    このバードのコメント以降、
    マイケル・ジョーダン=神様というイメージが定着していきます。


    5. まとめ


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    1970年代後半NBAの人気は地に落ちていましたが、1980年代マジック・ジョンソン、ラリーバードによってリーグは活性化していきます。

    私は今回の記事を書いていて1980年代のNBAは今のBリーグに似ていると思いました。

    Bリーグも数年前まで2リーグ存在しています。
    Bリーグ発足の経緯

    しかし、似ていないところもあります。

    それはライバル関係です。


    何とかダービーと言うのはよく聞きますが、個人と個人のライバル対決と言うのはあまり聞かれません。

    バードは習慣として

    ・レイカーズが試合を行った翌日の朝に必ずマジックのスタッツを確認
    ・シーズンのスケジュールが発表されるとまずレイカーズ戦に印をつけた


    マジックとバードは親交が深いことで有名ですが、よきライバル関係にあったことも分かります。

    マジックはバードに会う度に「ロサンゼルスに来たらうちへ食事に来い」と誘うが、それが実現することはないと知っている、とバードは語っています。

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    更に先日引退した折茂選手は今のBリーグに対して、「寂しい。ストーリーがない」と言い切りました。

    『ライバル物語』、もしかしたらBリーグを更に進歩させる合言葉かもしれません。


    そして、バードのバスケットに対する向かい方は日本人プレイヤーの参考にもなります。

    206㎝という高身長ですが、身体能力は並以下です。

    今のBリーガーでも身体能力に関してはバードに勝っている選手は多いと思います。

    バードは『正確な技術で頭脳的なプレー』で有名ですが、努力家でも有名です。

    入団当初はバスケットボール自体が苦手のように思われていました。

    しかし、情熱と闘争心、何より懸命な努力で『正確な技術で頭脳的なプレー』を身につけていったのです。


    1980年代マジックと共にNBA界を引っ張りマイケル・ジョーダンにバトンを託しました。


    身体能力は並以下でしたが、取って余るほどの情熱と闘争心で見るものを引き付けたバード。今後も多くの人たちのお手本となるでしょう。


    最後に伝説と呼ばれたラリー・バードのプレイをご覧ください。


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